ボケを全うしよう〜一億総突っ込み時代に生きる〜

中二病で、所謂メンヘラで、読書と歴史が好きなジャニオタ(V6クラスタ)の徒然日記。

言葉を大切に

肌寒い夜。

去年の私をより一層冷えきらせた季節が、今年もまたやってきた。

去年の私は、今年の私にどんなことを期待していたのかな。

 

今日、犬の散歩中にふと漠然と思っていた事を言語化出来た。

それは

ありきたりで使い古されたコトバを、コトバではなく実態として捉えていたい、ということ。

前回のブログにも書いたけれど、私達の周りには言葉が溢れている。

何かを経験した経験、その中で感じた事、それらを言語化したところで、どこかできいたような薄いコトバになってしまうことの方がずっと多くて。

それは、自分の想いを均一の言葉という形に当てはめるという作業を通すので、しかたがないことである。思いという不安定なものを日常になじませるためには、言語化が必要なのである。

だから、私が言いたかった事は、それをただのコトバではなく、自分のものとして捉えたときに、はじめて気付きが生まれる。自分の中で実感出来るということである。

 

 

数ヶ月前の、Facebookの自分のみ投稿にもこんなことが書いてあった。

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言葉を、大切にしよう。いつも心にとめて。

ありきたりな表現しか出来ないけれど

部員日誌に書きたくて、チキって、書けなかった事があった。

正確に言うと、一回投稿したけれど、次の日の早朝に消した。

誰かには見られている。アクセス数からそれは分かった。

でも、なんだか、なんだろう、今、あの場で私の本名で、みんなに読まれる勇気はなかった。

だから消した。

 

 

けれど、やっぱりこの、今これを書いた時点の私としての気持ちそのままを残しておきたいという思いもあって。

それが、ここに書く、という答えになった。

 

文体とかは堅苦しいから少し変えよう。

 

 

 

 

 

最近、毎日わりと楽しくやってる。

練習はもちろん、趣味に熱心になってみたり、友達とわいわい過ごしたり、一人でカフェに籠って小説(余談ですが最近、『失われた時を求めて』を読み始めました。全シリーズ、読破するのが目標です、いつになるか分からないけれど)を読んでいたら終わってしまう日があったり、新しい出逢いの中で得るものについて実感したり、と平凡ながら充実した毎日を過ごしている。

 

んー。なんか。

 

平凡って、幸せだなあって。

 

 

いや、この歳で何言っているのだ、もっと貪欲にならんかいって言われるかもしれない。「向上心のない者はばかだ。」確かにそう。もちろん、それは心得ている。しかし、私は、この何気ない毎日が凄く好きだし、出来れば一生続いて欲しいな、と思うんだよ、とてもね。たぶん、これ以上の幸せを得たら、その幸せを失ってしまうのが怖くなって、充分に今を楽しめないのかもしれない、と感じてしまうから。それに起因して、私は、映画や小説でもハッピーエンドを好まない。その先にある、闇をみてしまうから。というか現実では、そんな素敵な終わり方なんてない、と思う。何かと、心に引っかかるものや抱え込むべき問題が残る。だから、救い様もないくらいの悲劇が好きだったりする。

特に『人間失格』には非常に影響を受けたというか、力をもらった。堕ちるところまで堕ちても、人間って結局人間なんだよ、私は、そう言われたような気がした。

 

 

 

…約一年が経ちました。

 

あれから、一年。

 

 

 

 

 

この一年、私はたぶん一生忘れない。

 

 

 

 

 

 

私は、中学、高校とわりとも揉まれながら生きてきた。常に自分自身の存在意義について自問自答してきたし、今振り返っても、一生戻りたくはない、と思う出来事も沢山あった。だからこそ、何があっても耐えられると思っていた。どんなことがあっても、私は大丈夫だって。

 

でも、最も恐ろしい事は自分の中にあったんだって。

 

きっかけは外的要因、でも、変わってしまった私自身が凄く、凄く怖かった。なにより怖かった。きっかけなんかよりずっと、その後の自分が怖かった。ああ、終わったなって思った。

どんな過去を積み重ねてきたって、そんなのが何の役にも立たないんだと思った。村上春樹に言わせれば、「人生とは、ただの容れ物だと思っています。空っぽのかばんみたいなものです。そこに何を入れていくか、(何を入れていかないか)はあくまで本人次第です」ということだけど、私の容れ物の底には穴が空いて、急に空っぽになってしまったようだった。私と呼ばれる空っぽの容れ物は、ただただ、毎日を過ごした。記憶なんてないに等しいぐらいで。ひたすら、時間と調和して、過ごした。自分にも、人にも、関心なんて全くなかった。

 

だけど、そんな私を助けてくれたのは、やっぱり一回、容れ物の中にいれた中身だった。私が迷いながらも必死で生きてきた、その中で得た出来事達は私の中には一度なくなってしまっても、周りの人の中にはちゃんと残っていた。そして、私の容れ物の穴を修正し、少しずつ、そこに一度入れたものを戻してくれた。

 

 

 

今、私はそんなことがなかったかのように、毎日笑って過ごしている。でも、私を助けてくれた人達が一人でも欠けていたら、今はない、決して。

だから、周りの人達に言葉に出来ないくらい、感謝しかない。

本当に。本当に。支えてくれた皆さんに、いつか一人ずつ、会いに行って、お礼を言いたい。ありがとうございます。

 

そして、そんな出逢いをものに出来た過去の自分自身も、少しだけ、褒めてあげたい。

 

 

 

 

使い古された言葉になってしまうけれど、やっぱり「自分が経験したすべての出来事に無駄なことなんて一つもない」、この経験を通して、私が得た大切なことはこれだった。

 

周りを見れば、言葉が沢山溢れている。

何をしなさい、何を心に止めて生きなさい、これが大事だよ、本や雑誌、ネット、誰かから言われる言葉、出会いうるものは数えきれない。

でも、そんな言葉をいくら目にしたところで、それは結局他人事で。人は何かを自分自身のことと実感して初めて、本当に気付きとして自分のものに出来るのだと、私は思う。だから、私がこの経験から感じた全てのことだって、一度は耳にしたようなことばかりだった。でも、特に不器用な私は、こういう経験をしないとその言葉を自分のものとして得ることは出来なかったと改めて、思う。

 

 

 

自分に起こる全ての出来事が自分にとってのspecialだと思って前に進めたら素敵な事

 

 

 

先日、大好きな人にもらった言葉。

 

こういうことなんだよね、要は。

 

 

 

 

何が言いたかったのかと言うと、

あれから一年、

そこらへんの女子大生みたいにリア充ぶることは出来ないけれど、

周りの多くの人のおかげで、私は私なりにhappyな毎日を過ごしている。

 

感謝。

 

 

 

という訳で、

文章力も面白みもない私のブログを、最後迄お読み頂いた方いましたら、ありがとうございます。

長文、乱文、大変失礼致しました。

私から私へのブログ、だけど公開設定にしないときっと私は支離滅裂なことをかいてしまうだろうから。言葉を紡ぐって難しい。つくづくそう思う。

明日は1mmでも前進しているといいね。おやすみなさい。